[第29話]来たれ!生徒諸君 弥彦の明訓学校

 明訓学校は、明治13年(1880)に関矢孫左衛門らが中心となって設立した学校です。急速な近代化に伴い洋学が重視されるなか、漢学など旧来の学問もおろそかにしない教育を望む同盟者が集まり、明治15年(1882)、明訓学校は国学者の大橋一蔵おおはしいちぞうを校長として弥彦神社禰宜ねぎ鈴木家の土蔵で開校しました。

 明治16年、市島徳次郎いちしまとくじろうなど地元有志をはじめ、大蔵卿松方正義まつかたまさよしなど県内外から多くの支援者を得て、弥彦神社の北東に洋風2階建の新校舎が完成します。入学資格は満14歳以上、就学期間は5年間で、現在の中学校から高校にあたる私設教育機関でした。翌明治17年には生徒数157人になり、明治天皇から御手元金おてもときん下賜かしされ、副島種臣そえじまたねおみから扁額へんがくが贈られました。明訓学校には大きな期待が寄せられていたのです。

西蒲原郡栗生津村長善館学塾資料の画像
【西蒲原郡栗生津村長善館学塾資料】(請求記号E9306-771-2)
明治16年、開校に寄せた県令永山盛輝からの祝辞。「明訓ノ名ニ負カサランコト之余ノ諸氏ニ期スル」と激励している。(新潟県指定文化財)

明訓学校同盟証票(西蒲原郡弥彦村弥彦神社社家鈴木家文書)の画像
【明訓学校同盟証票(西蒲原郡弥彦村弥彦神社社家鈴木家文書)】(請求記号E0704‐79)
「何等何社ノ人ニ関ワラズ、同盟者ニ付与ス」とあり、理念を同じくする者という意識が読み取れる。

 明治18年(1885)10月、明訓学校は西蒲原中学校と合併し、県立校になりました。大石原おおいしはらの新校舎で行われた開校式には森有礼もりありのりなど400人を超える人々が列席し、華やかな幕開けとなりました。

 しかし、この後運命は暗転します。県立校となった翌年、大橋一蔵は校長の職を辞し、以後北海道開拓に力を注ぎます。また、公立学校になったものの、経営はそれまで通り寄付と授業料で成り立っていたため、経営の悪化を招きました。明治21年7月15日、県立明訓学校は廃校となりましたが、同年9月、存続を望む強い声により、再び私立明訓学校として再開されました。一旦は息を吹き返したものの、年々生徒数が減少し、明治29年(1896年)にはついに廃校となりました。

 現在跡地には碑が残されるのみですが、「明訓」の名は昭和17年に新潟夜間中学校に贈られ、現在新潟明訓高等学校に引き継がれています。